
織田がこね 羽柴がつきし 天下餅座りしままに 食うは徳川
三人の若き武将が出合い時代を駆け抜け夢みたものは。100年もの戦国時代に幕を引こうとした織田。その後、秀吉、家康と受け継がれ戦国の世は終わった。
三大武将 ~織田・豊臣・徳川~
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<織田 信長>
”鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス”
生涯:1534年6月23日- 1582年6月21日(享年48歳)
出身:尾張国(現在の愛知県)
桶狭間の戦い(1560年)
ここから歴史が動きだした。信長は今川軍の陣中に強襲をかけ義元を討ち取り天下統一へ躍進する。
<幸若舞 敦盛(信長が好んで舞い有名です)>
思へばこの世は常の住み家にあらず 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし 金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
<敦盛の意味>
思えばこの世は無常である草葉についた水滴や、水に映る月より儚いものだ
晋で栄華を極めた金谷園(きんこくえん)も風に散り四川・南楼の月に興じる者も 変わりゆく雲に被われ姿を消した
人間界の50年など 下天(化天)での時の流れと比べれば 夢や幻も同然
ひとたび生まれて 滅びぬものなどあるはずがないこれを悟りの境地と考えないのは 情けないことだ
(開始2:00から人間五十年のフレーズが始まります。)
(本能寺の変で焼け落ちた『本能寺跡 ( 09:34 ) 』現在の『本能寺 ( 54:56 )』)
<豊臣 秀吉>
”鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス”
生涯:1537年3月17日- 1598年9月18日(享年61歳)
出身:尾張国(現在の愛知県)
中国大返し(1582年)
この行動で秀吉の未来が決まった。諸説あるが本能寺の変を知り毛利輝元と講和、備中から京都に軍を返した。
<5回の改名>
木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 → 藤原秀吉 → 豊臣秀吉
<本能寺の変 黒幕説>
本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説で中国大返しのさいに70キロの距離をわずか1日で撤収するなど事前準備がないと難しいとされているためだ。
(”木下藤吉郎”時代に一夜で築いたと言われる「墨俣一夜城」)
(黒田官兵衛より献上され中国攻略のために秀吉が拠点とした「姫路城/白鷺城」 )
(豊臣秀吉の集大成、豊臣家、最後の砦「大阪城」)
<徳川 家康>
”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス”
生涯:1543年1月31日- 1616年6月1日(享年73歳)
出身:三河国(現在の愛知県)
関ヶ原の戦い(1603年)
この勝利が戦国時代の終わりを告げる。朝廷より征夷大将軍に任せられ大坂夏の陣で豊臣氏を滅す。
これにより260年間続く江戸幕府を開いた。
<伊賀越え>
1582年京の散策中本能寺の変が起きた。家康は少人数で行動しており危険な状態となる。諦め自害しようとしたが本多忠勝に説得され翻意し服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え海路で三河国に戻ったのだ。
<家康と光秀>
本能寺の変より以前か家康と光秀は同盟、絆に結ばれていたと言われている。光秀の死後に家康の側近として現れた天海。日光東照宮にある明智家の家紋。彼達の間にはいったい何があったのだろうか。因みに ”鳴かぬなら 私が泣こう ホトトギス” と光秀なら読むのではないかと言われています。
(家康生誕の「岡崎城」)
(江戸城は現在の皇居一帯にありました。現在、江戸城本丸跡は芝生の園地となっている。)
(家康公のお墓については諸説あり。最も有力とされているのが久能山東照宮である )
(久能山東照宮に埋葬されていた徳川家康の遺体を移した場所と言われています)
(家康公は日光東照宮 奥の院に眠るとされています)